きものスタイリスト大久保信子 きもの語り 晴れ着の丸昌 横浜店

きものと私

きものとのはじめての出合いから、きものスタイリストとしてデビューするまで――。
連載第一回は、大久保信子さんが、きものと共に歩んできた"道のり"のお話を。

スタイリストという仕事

――きものスタイリストという職に就かれた、きっかけは何でしょうか。

大学を卒業後、23歳で結婚をして専業主婦になりました。しばらくは家事と育児に追われる暮らしをしていましたが、子どもが小学校に入学して、少し落ち着いたときに、漠然と思ったんです。これからは何か資格を持ったほうがいいのでは、と。

そこで通い始めたのが着付けの学校でした。若い頃に着る機会があったので、きものに馴染みがあったのね。主婦業の傍ら、着付けの講師として働きはじめました。

そうしたら、ある日自宅のポストにアンケートつきのハガキが届いていて。羊毛の繊維メーカーからのものでした。そのアンケートに答えて返送したんです。職業欄に「着付け講師」と書いたことにメーカーの担当の方が興味を持たれて、さまざまな職業の女性が集まる座談会に呼ばれました。7~8名の参加でしたが、着付け講師は私ひとり。手芸の先生をされていた方もいらっしゃいましたね。

軽い気持ちで参加した座談会に、きものの本を制作する編集者がいらしていて、その方にきもの雑誌でコーディネートをしませんか、とお誘いを受けたんです。このお誘いが、今のお仕事をはじめたきっかけですね。

――きものスタイリストとは、どのようなお仕事なのでしょう。

雑誌のお仕事を進める中で、自分の肩書が「着付け講師」でいいものか迷っていたところ、編集の方がおっしゃったんです。「アメリカでは『スタイリスト』という職業が流行っているのよ」と。その方はジャパンタイムズで記者をされていたこともあったので、スタイリストという言葉をご存じだったんです。これがきっかけで、日本初のきものスタイリストとしてデビューすることになりました。

最初のお仕事は、雑誌に掲載されるきもののコーディネート。右も左もわからず、もう必死でしたよ(笑)。カメラマンの方にいろいろと教えていただきましたね。モデルさんに着付けをすることもありました。どうすれば美しく見えるか、考えながら実践する日々はとても勉強になりました。

その後、著名なきもの作家のファッションショーのスタッフとしてお声をかけていただいたり、テレビドラマや舞台に出演される女優さんへの着付けを担当させていただくようにもなりました。

雑誌と違って、ショーや映像の世界はきものを着た方が動きます。動作をともなったときにも美しく見えるよう、衣裳選びから着付けまで研究しました……。うーん、「しました」では、ないわね。このお仕事をはじめて50年以上が過ぎましたが、着る人が美しく見えるにはどうすればよいか、今でも研究中ですね。

幼少期のきもの

――大久保さんのご実家は日本橋とお聞きしました。

そうです。日本橋富沢町というところで木綿問屋を営んでいました。私は五人姉妹の三番目。自由奔放に育ちました。

木綿問屋の生まれとはいえ、つねにきものに触れている生活ではありませんでした。はじめて袖を通したのは、七五三の三歳のとき。記憶には残っていないけれど、写真が残っています。真っ赤な地色に白い鶴の文様が描かれていたそうです。母が着つけてくれました。

大きなおはしょりとぽっこり出たお腹が可愛らしい。

――こちらは七歳のときの七五三のお写真ですね。

地色は紺だったかしら。大きな紅葉や梅の文様がポイントになっていますね。(アルバムを開きながら)あら、これは「夕立」という演目で踊った、日本舞踊の発表会の写真だわ。七五三のときと同じきものを着ているわね! 今、気がつきました(笑)

七歳のときの七五三の記念写真。

「夕立」を演じた十三歳の大久保さん。

昔の人はきものを大事に着ていたことがわかりますね。成長とともに仕立て直しをして、何度も着るものだったんです。私は姉妹が多かったので、一枚のきものを皆で順番に着ていました。三歳のときに着たきものは、その後妹の長じゅばんになりましたし、七歳のときのきものは、姉の娘が袖を通したんですよ。

――現代ではこうした考え方が希薄になってきましたね。

時代の変化でしょう。少子化が進み、姉妹や親族間できものを着まわすことが少なくなりました。昔は母から娘へきものを譲ることも多かったですが、今の若い方は手足も長く、寸法が合わないので、それさえも難しい。レンタル衣裳で借りる方が増えたのも、こういう背景があるからかもしれませんね。

さらに、現代はきもの選びの際も個性を大切にする時代。私の時代は、七五三のきものも振袖も親が選んだものを着ていましたが、今は子どもの意思を尊重するでしょう? いい時代になったと思います。レンタル衣裳店でも親任せにせず、自分の着たいものを探すのは、若い頃からきものに対する意識を高めるよい機会だと思います。

龍村の帯が教えてくれること

――幼少期だけでなく、十代、二十代にもよくきものを着られたのですか。

二十歳まで日本舞踊を習っていたので、踊りのお稽古や発表会ではきものを着ていましたが、それ以外はいつも洋服。明治38年生まれの母は、ふだん着はきもので、おしゃれするときに洋服を着ていたと話していましたが、私の若い頃はすでに洋服の時代。きものを着るのは、せいぜいお正月か親族の結婚式くらいでした。成人式という行事も、まだ定着していませんでした。

――意外ですね。こちらは、大久保さんの結婚式のお写真でしょうか。

白無垢のあと、振袖でお色直しをした。

そうです。お色直しをしたあとの写真ですね。姉から譲り受けた振袖で、金箔押しが施されていて、扇面の柄でしたね。帯は龍村のもの。日本橋高島屋で父に買ってもらったものです。裏にも柄が織られていて、それを見せたくて立矢に結んでいただきました。振袖は実家で保管していたのですが、残念ながら火事で燃えてしまいました。帯のほうは私が自宅に持ち帰っていて幸い無事だったんです。今日は、そのときの帯を持ってきました。

――わあ、すてき! なんてモダンな帯なのでしょう。

「千代の冠錦」という袋帯です。私の帯は先々代の龍村平蔵さんの作品ですが、同じものが今でもつくられているんですよ。お太鼓には冠鶴の文様が織られています。たれにも「びらかん」がひらひらしていて美しいでしょう。ピンクやオレンジ、ターコイズブルーなど、多色使いで華やか。古さを感じさせないのは、龍村平蔵さんの卓越した技術とセンスのみならず、伝統的な文様と確かな品物であればこそではないでしょうか。

大久保さんが大切にしている龍村の帯。ご自身で初めて選んだ思い出の訪問着に合わせて。

きものと違って、帯はサイズがほぼ統一されています。しかも、汚れにくく、長持ちするので、きちんと保管をしていれば、何代にも渡って受け継ぐことができます。龍村の帯は、もう私には派手なので、孫に譲ろうかと思っています。成人式に結んでもらえたらうれしいわね(笑)。

丸昌の振袖に合わせてコーディネート。年月を経ても古典の美は受け継がれます。

きもの豆知識

「帯に派手なし」
「菰を着ても錦を巻け」

帯は年齢よりも華やかなもの、少し派手かなと思うくらいのものを選ぶと、きもの姿が美しくまとまります。「菰」とはボロの意味。粗末なきものを着ていても、帯がよければ万事うまくいくということです。

「帯は三代」

龍村の帯のエピソードからも分かるように、きものは汚れたり、生地が傷んだりすることがあっても、帯は三代先まで受け継がれていくもの。洋服ではなかなかこのようなことはできません。考えようによってはとても経済的なおしゃれともいえますね。

教えてください! 愛用の一着

網目のような幾何学文様が印象的な、ちりめんの小紋。赤みがかったグレーが秋らしい色合いです。帯に描かれている蔦の葉も、色がないことで、秋から冬にむかって季節が移ろいでいく様を感じさせます。きもの、帯ともにシックなので、緑と紫のぼかしの帯締めで色をきかせています。

大久保信子さんのきもの語り
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大久保信子さんのご紹介

1976年に某着物雑誌の制作に関わり、日本で初めて「きものスタイリスト」として紹介される。それ以降、ハースト婦人画報社、世界文化社、プレジデント社などの各雑誌、NHK、その他各種テレビ番組、着物取扱い業者のパンフレットなど、着物のスタイリングおよび着付けに幅広く携わる。十数年の日本舞踊の経験や、歌舞伎鑑賞を趣味としており、着物に関する奥行きの深い知識と美学を身につけている。常に、着る人の立場に立って、その人の持っている美しさを最大限に引き出すスタイリングと着付けには定評がある。